【公式】明智光秀生誕の地 ・岐阜県可児市|「麒麟がくる」|大河ドラマ館

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明智光秀に関わる様々な文献や資料から読み解く、
可児市と光秀の関係をお話しします。

光秀生誕の地 明智荘

現在の可児市東部には、かつて明智荘(あけちのしょう)とよばれた荘園が広がっていました。明智光秀はここを治めていた土岐氏の一門である明智氏の出身とされています。この地域には、光秀が生まれ落城するまで居住したとされる明智城跡や産湯の井戸跡、明智氏歴代の墓所をはじめ日本最大の光秀の位牌などがまつられている天龍寺があります。明智光秀ゆかりの地

明智荘の現在

明智城二の丸近くの七つ塚

産湯の井戸

六信眷属幽魂塔

土岐氏と明智光秀

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前半生について、ほとんど明らかになっていない謎の多い人物、明智光秀。その出自については諸説ありますが、通説では土岐氏の流れをくむ「土岐明智氏」の一族であるとされています。土岐氏は摂津源氏・源頼光の子孫のうち、美濃に土着した一族である土岐光衡を実質的な祖先とし、美濃国土岐郡を本拠地とした氏族でした。美濃国の守護として、時には国政に大きな影響を与えるほどの力を持っていたようです。そんな土岐氏が家紋に掲げていた桔梗は、光秀の使用した紋であったともいわれます。
 『美濃国諸旧記』※によると、康永元年(1342) に土岐頼兼が、美濃国明智荘(明知荘) に城を築いて居城とし、以降「明智」の名字を名乗るようになったとされます。この一族が土岐明智氏であり、光秀と深い関係があると考えられています。

明智荘と明智氏

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土岐明智氏発祥の地とされる可児郡の明智荘(あけちのしょう)は、現在の可児市北東部から御嵩町西部にかけて存在した荘園で、以前は「明知八郷」と呼ばれた地域でした。光秀が生まれた時代に、土岐明智氏が明智荘一円を治めていたことを知る確実な史料は、残念ながら見つかっていません。しかし『美濃国諸旧記』は、初代の土岐頼兼から光秀に至るまで、可児郡の明智荘に土岐明智氏が住んだとしています。
近年では瀬田地区の狭い地域に寺院が集中している点や、「東屋敷」「西屋敷」「大屋敷」といった地名が残っていることを踏まえ、この地区に有力な武士層が居住していたのではないかという推測もあります。その話を裏付けるかのように瀬田の青龍山天龍寺には「明智氏歴代の墓所」とされる石造物群があり宝きょう印塔、五輪塔が並びます。さらに日本一大きな光秀の位牌がまつられている天龍寺では、明智一族と関わりが深い寺院として、例年6月に「光秀供養祭」が行われています。

東海環状自動車道の可児御嵩ICを降りれば、そこははるか昔の明智荘の領域です。田園地帯であり、可児郡の米どころでした。大河ドラマ館が開設される花フェスタ記念公園もまた明智荘の領域内にあります。不思議なご縁でつながっているようです。

光秀の誕生

光秀は享禄元年(1528)※1に、可児郡・明智荘で生まれました※2。『美濃国諸旧記』によると、父は明智城主の明智光綱、母は大野郡府内(現在の揖斐川町)を本拠とした山岸氏の娘であったとされています。さらに光秀の叔母は斎藤道三の妻(小見の方)であり、その娘が「帰蝶(濃姫)」とも記されています。要するに織田信長の正室として知られる濃姫とは”いとこ同士”。明智氏は美濃国の支配者だった斎藤道三とも姻戚関係にあり、東美濃の有力な一族であったとも考えられます。光秀の知識や教養の高さと人脈の土台は、明智一族の後継ぎとして育てられたことによるのではないでしょうか。

実は、光秀が明智荘のどこで生まれたかははっきりしていません。しかし昭和40年代の土地改良以前までは瀬田地区・字浦田の瀬田川付近に、産湯の井戸跡が残されていたようです。

※ 生年は『続群書類従』所収「明智系図」によります。

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道三と若き光秀

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『美濃国諸旧記』によると、光秀は早くに父・光綱を亡くしました。その後は叔父・光安らの支援のもと、弘治2年(1556)まで明智城で暮らしていたそうです。この当時、明智氏は一貫して斎藤道三に肩入れしており、それに応えるように道三が明智一族を自分の楯と思うほどに信頼していたとの記述もみられます。
もしかしたら、若き光秀は「美濃のマムシ」として知られた斎藤道三の影響を受けて成長したのではないでしょうか。そして「道三流」の生き方が受け継がれ、影響を与えているとしたら……。壮大な歴史ロマンに、興味は尽きません。
さらに同書には、光秀が武術鍛錬のため各地を巡っていたとも書かれています。いわゆる武者修行の逸話です。これは城主の息子としてはかなり型破り。さまざまなことに興味を示す若き光秀像は魅力があります。
さて可児における若き光秀の時代も、そろそろ終わりに近づいてきました。美濃国内では斎藤道三とその子・義龍との対立が深まっていたのです。

道三との別れと明智城の落城

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弘治元年(1555)冬、斎藤義龍が父・道三に対して兵を起こしたのをきっかけに、親子の対立は美濃国を二分する争いに発展しました。『美濃国諸旧記』によると、道三に味方する勢力は少なかったようです。一方で光秀の叔父・光安は「道三に恩はあるが、義龍にも義がある」として、いずれの勢力にも加担しないと決断し、光秀だけを義龍のもとに遣わしたとされています。
翌年4月、斎藤道三は長良川の戦いで討ちとられ、義龍方の勝利で決着がつきました。この時の光秀の動向は不明です。

その結果、もともと道三方にあった明智氏は苦境に立たされました。さらに光安が道三との義理を貫いたため同年9月、明智城へと戦火が及びます。明智一族は家臣含め800人ほどで籠城しましたが、激しい攻撃を受け、ついに落城するのです。
光安は自害して命を落とす前に「落ちて存命なし。明智の家名を立てられ候へ」と、光秀に家の再興をゆだねました。こうして明智一族は跡継ぎの光秀だけを残し、滅亡することになったのです。
可児市・瀬田の明智城跡には、この際の戦死者を弔ったという七つ塚や村人がひそかに建立した六親眷属という幽魂塔が今も残されています。主郭とされる地点は配水池となっており、現在は旧状をとどめていません。しかし、東出丸・搦手曲輪・二の曲輪・三の曲輪・西出丸・乾曲輪と伝わる場所があります。

可児から天下へ

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行き場を失った光秀の苦難の日々が始まりました。『美濃国諸旧記』によれば、母方の郷里である西濃・山岸氏に妻子を預け、各地を巡っていたとのこと。どうやら明智城落城前に、同族である妻木氏から妻を迎えていたようです。仲むつまじい逸話で知られたこの女性、一説には「煕子(ひろこ)」と呼ばれているものの本名は不明です。
もし可児を出なければ、光秀は地方の領主一族として生涯を終えたのかもしれません。しかし一族の衰亡は、かえって天才を世の中に解き放つきっかけとなりました。
次に光秀が歴史の表舞台に登場するのは永禄11年(1568年)、織田信長が上洛する頃。
そして天下へ、飛躍の時を迎えるのです。

【参考文献】

○ 黒川真道編『美濃国諸旧記』国史研究会、1915年

○ 二木謙一校注『明智軍記』新人物往来社、1995年

○ 小和田哲男『明智光秀 つくられた「謀反人」』 PHP新書、1998年

○ 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』洋泉社歴史新書、2014年

○ 小和田哲男ほか『明智光秀の生涯と丹波福知山』福知山市、2017年

○ 柴裕之編著『図説 明智光秀』戎光祥出版、2019年

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